日本型-西洋型認識方法と創造
The Ways of Knowledge in Japan- and West-Type and Creation
弓 野 憲 一(Kenichi YUMINO)
(静岡大学:静岡市大谷836)
自然・人間・社会等の認識の仕方は、文化によって異なる。文学作品から引用すると
芭蕉は主観的、対象(自然)と一体化した作者、情緒的、共感的に自然を認識し、
Tennyson は客観的、対象から独立した作者、理性的、探求的(≒創造的)にそれを
為している。この様な認識の違いは教育に大きな影響を与え、日本においてはテキストの読解・再生型教育が優勢になり、知識生成や知識創造が生じにくい。これに対して西洋では、読解プラス自己表現が幼児期より求められるので、読解においてさえ創造が出現する。急速に変化する社会に適応するために、今後の日本においては、日本型及び西洋型教育が必要である。
1.はじめに
年功序列性が根強く残る日本の社会においては、長い間労働者の賃金格差は小さかった。しかしながらここ数年、その格差は大きく広がろうとしている。派遣労働者の出現である。正社員ではない労働者の比率が1/3までに増加したとの報告もある。就労期間・時間が限られていることから、これらの労働者の賃金はあまり増える見込みがない。「ワーキング・プア」が多数出現したのである。
グローバリゼーションが進み、日本の産業が中国・東南アジア等にますます移転することが予期される今及び今後において、日本の労働者が生き残るためには何が必要なのであろうか。労働者の基礎的な資質を支える学校教育においては、どのような力量や資質を形成すればいいのであろうか。不確かな世の中を生きるためには、完成された知識の習得のみではなく、さまざまな問題に遭遇した時に解決案を思考できる「知識の生成法」「知識の創造法」についても、幼い頃より「学ぶ」必要があるであろう。この論文では、日本型-西洋型認識方法と創造の関係を考察する。
2.日本人の自然に対する認識
日本語で書かれた文章の中には、それをだれが書いたかがはっきりしない文章が随所に見られる。すなわち、書いた主体が明確ではないのである。このことは、日本人の自然・人間・世界に対する認識の仕方を、反映したものであると思われる。
日本の詩歌における第一人者と評される、松尾芭蕉の紀行文「奥の細道」の「松島」を例にとってみよう。
松尾芭蕉(1644-94)の自然認識(松島)
抑ことふりにたれど、松嶋は扶桑第一の好風にして、凡洞庭西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の湖をたゝふ。嶋嶋の数を尽して、欹ものは天を指、ふすものは波に葡蔔@。あるは二重にかさなり三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり、児孫愛すがごとしA。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。其景色□然として美人の顔を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ。
上の風景描写を2つの観点から考察しよう。
疑問 @私(I)はどこにいるのだろう。
A私(I)はどのように自然を認識しているのだろう。
疑問@に関しては、「私」が松島のある地点に陣取り、景色を客観的に眺めて、文にしているのではないということである。天空より鳥瞰的に松島を眺めているのか、小高い丘の上より眺めているのか、海岸の松林より眺めているのかは、定かではない。もしかすると私は松島の上を「さまよって」、「欹ものは天を指、ふすものは波に葡蔔」の美景に見ほれているのかも知れない。
疑問Aに関しては、「児孫愛すがごとしA 」にその本質が表れている。子どもや孫を愛するが如く、天を指し示す奇岩や波間に浮かぶブドウのような岩を、体全体で感じ取り「愛でよ」と詠っている。自然に対する主観的、情感的、心情的、体感的、共感的な「認識」である。
3.西洋人の自然に対する認識
デカルト(1596-1650)
「我思う、故に我あり」。近代的自我の発見である。「思う我」と「思われる我」、「見る我」と「見られる我」が分離している。ここから、自然に対する認識も、「見る我」と「見られる自然」に分離する。見られる自然(対象)を「体感」「情感」する「我(I)」ではなく、対象から独立した「我」が存在するのである。すなわち、客観的に自然を認識する我が誕生したのである。西洋における「科学の勃興」には、欠かすことのできない「自我の発見」である。
英国における最高の詩人の一人であるTennysonの詩を例にとってみよう。
Alfred, Lord Tennyson.(1809-1892)の自然認識
Flower in the crannied wall 壁の裂け目に咲く花
Flower in the crannied wall, (壁の裂け目に咲く花よ)
I pluck you out of the crannies; (私が裂け目より摘み取ったよ)
I hold you here, root and all, in my hand. (私はあなた、根っことすべてを、
私の手に抱いているよ)
Little flower, but if I could understand (小さな花よ、私が理解できるならば、)
What you are, root and all, and all in all, (あなたは何もの、根っことすべて、
すべてのすべて、)
I should know what God and man is. (私は知りたい、神と人が何であるかを)
上記疑問@に関しては、「私」は壁の裂け目の近くに居り、裂け目に咲く花を見つめ、それを摘み取っている。 疑問Aに関しては、客観的、理性的に自然を愛でている。さらに最後の行には、神や人に対する「探求的な疑問」を「私」が吐露している。すなわちTennysonの詩には、自然に対する認識とともに、神や人間を認識したいという欲求が盛り込まれている。単なる「風景描写」の詩ではないのである。
かかるところより、
芭蕉⇒主観的、対象(自然)と一体化した作者、情緒的、共感的
Tennyson ⇒ 客観的、対象から独立した作者、理性的、探求的(≒創造的)
と、まとめることができよう。
4.日本型-西洋型認識と知識生成(知識創造)
日本型読解 日本の「国語学習」を取り上げよう。漢字・意味の修得とともに、テキストが「物語」であった場合には、「作者の意図」、登場人物等の「気持ち」「感情の変化」の読み取りは、重要な学習問題である。「読解」の中心課題となっている。児童・生徒はかなり長い時間かけて、この学習問題に取り組む。それは他人の気持ちを推し量ることを重要視(気遣い)する社会への適応を意図したものであろう。日本人が信じている価値が、教育を通じて次の世代へと引き継がれるのである。
当然のことながら上に示した芭蕉の自然認識は、綿々と日本の教育の中に受け継がれ、テキストの読解にも現れる。テキストに書かれた「正しい内容」を読みとろうとするのである。正しい作者の意図を推測し、登場人物の気持ちや感情の変化を、主観的、心情的、共感的にくみ取ろうとする。正しい答えが決まっているので、読者は、いかにしてその正しい答えに近づくかが焦点になる。この様な読解からは、「知識の生成」「知識の創造」は生まれにくい。さらに、読者一人ひとりが、独自な視点に立って内容を理解しようとする態度や動機づけは高まらない。
西洋型読解 筆者はこれまでに、アメリカ.カナダ、イギリス、フィンランドの小中学校や子どもの居る家庭を訪問したことがある。どの学校にも「英語」があり、さらに「創造的作文:Creative Writing」があった。また親や教師が絵本やテキストを読み聞かせる途中で止め、「これから物語はどうなりますか、続きを語って下さい」という場面にたびたび出会った。物語が途中まで書かれたプリントが手渡され、その先のストーリーを完成することが求めらるクラスも見学した。西洋型読解は、テキストの理解に加え、児童生徒個人個人の自己表現を含んでいるのである。西洋型読解は、複数のテキスト(持ち込んだ資料も含む)の理解とともに「創造」も含んでいるのである。 西洋世界の子どもは、幼い頃より知識生成、知識創造を体験しながら大きくなっていくのである。以上の考察を表にまとめると、表1のようになる。
表1 日本型読解と西洋型(PISA型)読解と創造
日本型読解 西洋型読解
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教材1
教科書
教師・権威
作者意図 |
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教材1 |
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教材2 |
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教材3 |
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強 い 自 己 |
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正しく理解・読解 |
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各教材の内容を踏まえた
自説の生成・創造 |
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弱い自己 |
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日本人の読解⇒正しいものに近づく
利点⇒高いレベルの知識・スキル
弊害⇒自信がもてない
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教材1,2,3を理解して自分の意見
読解=理解+自己表現
読解=意味を「協議する」過程を
含む |
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5.西洋型学力をつける授業
日本人が世界で活躍するためには、日本型学力とともに、西洋型学力(PISA型学力)の育成も欠かせない。データや学説や証拠等に基づいて「論理的に自説を展開できる学力」である。このためには、授業方法に工夫が必要である。筆者の経験では、@ディベート、A概念地図法、B仮説実験授業、さらにはブレインストーミング・ブレインライティング・KJ法・NM法等を用いた「創造的問題解決法」が有効であった。特に、カリキュラムを自由に設定できる「総合的学習の時間」に創造的問題解決法を用いて、児童・生徒・学生一人ひとりが固有で価値のあるテーマを設定し、永い時間をかけてそれを解決し、その成果のデモンストレーションを行う授業は、児童・生徒・学生の西洋型学力を確実に伸ば
していると実感している。